第33話 「忍び寄る悪夢」

 

「う…うぅ…」

闇の中に、少女が啜り泣く声が響く。
それは酷く耳障りで、ハロルドは何度も「やめろ」と心の中で叫んだ。

しかし、何故だかわからないがその思いを声として発することは決して叶わない。

 

(やめろ)

(やめろやめろやめろやめろやめろ)

(黙れ)

ハロルドがどんなに願っても言葉は全く出てこない。
ただ荒い息遣いのみが空気を震わせる。

それに反するように、少女の悲痛な声はどんどん大きくなっていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ル…ねぇ…ねぇ、ハル?どうしたの?大丈夫?」
「ん……」

どこからともなく、自分を愛称で呼ぶ慕わしい声が聞こえる。
それは徐々に鮮明な響きを持ち、ハロルドの意識を眠りの淵から引き上げた。
重たい瞼を持ち上げると、彼の妻ティアリスが心配そうな顔が視界に飛び込んできた。

「ねぇ、大丈夫?ハル、魘されてたわ」
「魘されてた…?俺が、か?」

そう言いながら、鉛のように重たい半身を起こす。その時、心臓が早鐘のように打っていることに気付いた。
それだけではなく、悪夢の残滓が纏わりついているような錯覚を覚えるが、しかしその内容までは思い出せない。
息を貪りながら頭に手を添える。頭の芯がじんじんと痛み、寒気を覚える。

「あー…何か悪い夢を見てた」
「悪い夢?どんな夢だったの?」
「…思い出せない」

そう言ってティアリスに寄りかかる。
彼女の温もりが、悪夢の残滓を溶かして心まで温めてくれる気がした。

ややあって身体を離すと、尚も心配そうなティアリスに笑いかける。

「心配かけて悪かった、もう大丈夫だよ。
さーて、すぐ飯にするから待っててくれよ」
「あら、私が作るわよ。ハルはお仕事に行かなきゃいけないでしょう?」
「いいっていいって。ティアは普段から働きすぎなんだよ。
妊娠中ぐらい身体を休めてくれよ」

努めて陽気な声で言って、部屋から出て行く。
ティアリスは、それでも自分も手伝うと申し出てくれたが、身重の彼女を気遣って首を横に振った。

2階にある寝室を出て、階下の厨房まで降りてきたその時、一片だけ残っていた悪夢の残滓が鮮明なイメージとなって脳裏に浮かび上がった。

それは、ハロルドが組み敷いている女の姿だった。
哀れな獲物に過ぎない筈のあの女の目が、凌辱者の姿を映している。

このままでは済ませるものか、お前の全てを奪ってやる、と報復を誓うようなあの目。
そして、そこに映った己自身の姿。あの時、自分がどんな顔をしていたか、今でも忘れられない。

悪寒と不快感を覚えると同時に、何とも言い難いほどに気分が悪くなり、ハロルドは壁に凭れ掛かり小さく毒づいた。

「くそっ…あの女…」

ゴールデングロウの件が全て終わってから、もう2ヶ月以上が経過した。
ハロルドの雇い主だったアリンゴスが、ソフィアと名乗っていたメイド…つまり、メイという名の盗賊に殺害されたのが降霜の月の初旬の頃のことで、黄昏の月を経て、気付けばもう星霜の月だ。
アリンゴスの埋葬も、彼に雇われていた傭兵仲間への支払いも全て終わった。
主人を失ったゴールデングロウ農園が今後どうなるのかはわからないが、それはもうハロルドの関与するべきことではない。

ハロルドはもうゴールデングロウ農園とは何の関りもない。
にも関わらず、ゴールデングロウ農園の件を今も引き摺っている。
正確には、ゴールデングロウ農園というよりもメイこそが元凶だ。

他の傭兵たちが、怒りに任せてあの女を殺そうとしたのは正しい行動だったと今ならわかる。それを止めたのは他ならぬハロルドだ。
止めた理由は、十の半ばに届くか届かないかの娘を殺すのは正直言って気が引けたからだ。

とは言え、傭兵仲間の怒りにも共感出来た。
アリンゴスはなかなかにいい雇用主だったし、ゴールデングロウ農園の見張りという仕事は退屈だが給料は申し分なかった。

つまり、メイを売り飛ばすことや、その前に「報復」の意味合いも込めて彼女で遊ぶことは彼からすれば合理的な判断だったが、一時の欲望と小金欲しさのためにそんなことをすべきではなかった。
捕らえたらすぐに始末するのが、アリンゴスに雇われた見張り番として最も正しい選択だった。

あの女にまんまと逃げられたことは不覚だったが、しかし彼女は死んだ。…おそらく死んだと思われる。
生きている筈がないのだ。

堅く閉ざした門から脱出出来た形跡はなかったし、他に退路と言えばホンリッヒ湖を渡るしかない。
しかし小舟は使えないように強固に繋いであり、また、動かした様子もなかった。
となれば泳いで渡ることになるが、あの寒さの中、生身で向こう岸まで泳ぎ切れる距離ではない。
もしかしたら地下道に潜ったのかもしれないが、あそこは恐ろしい化け物の巣窟となっているとアリンゴスから聞いた。
実際に、地下室への入り口は鼠一匹逃がさぬほどに厳重に封鎖してあった。時折、腹に響くような獣の咆哮を耳にしたこともあったことから、アリンゴスの話は本当なのだろう。
メイが、アリンゴスさえ知らない抜け穴でも見つけて地下に降りた可能性も皆無ではないが、だとしても既に獣の餌食になっている筈だ。
どちらにせよ、あの女が生きてゴールデングロウ農園を脱出したなどありえない。

そう思っていても、ハロルドはまだあの女の幻影に苛まれ続ける。
あの女を犯したことで、こちら側が蹂躙する立場だったにも関わらず、消えない穢れを刻み付けられた気がしてならない。

それは、まるで魔女の呪いのように、今もハロルドを縛り付けている。
あの女が今も生きていて、こうしている間も、ハロルドに報復するために着々と準備を 進めているのではないか。
彼の愛しい存在を奪い、生活も人生も何もかも台無しにするべく、再び目の前に現れるのではないか。
今でもそんな妄想を抱いてしまうのだ。

男ばかりのゴールデングロウ農園に数か月に渡って縛り付けられ、性欲が溜まりに溜まっていたとは言え、一時の欲望の代償はあまりにも大きい。
妻以外の女性、しかも年端もいかぬ娘に手を出したことへの自己嫌悪とティアリスへの罪悪感もあって、今は心から後悔している。

その時、ティアリスが厨房へと顔を覗かせた。
ハロルドは慌てて居住まいを直し、彼女へと向き直ると、何でもないとでも言うような顔で笑ってみせた。
ティアリスはハロルドの様子には気付いていない。というよりも、他に何か懸念があるらしく、落ち着かない様子だ。

「ティア、どうかしたのか?」
「うん…前にハルから貰った蝶々の髪飾りを覚えてる?」
「え?ああ、覚えてるよ」

ハロルドの脳裏に赤い蝶々を模した髪飾りが浮かんだ。
ゴールデングロウ農園の見張り番という仕事に就く前、ハロルドは傭兵として各地を巡っていた。
その髪飾りは、護衛の仕事の途中で立ち寄ったソリチュードで見つけたもので、鮮やかな赤がティアリスの薄紫色の髪に映えるだろうと思って買ったのだ。
ティアリスは大層喜び、ずっと大事に持っていた。

「…見つからないの」
「え?つい最近、着けてなかったっけ?」
「うん、着けてたわ。絶対になくさないように、いつも決まった場所に置いてたのに…」

そう語るティアリスは、気の毒なぐらい落ち込んだ様子を見せている。ハロルドに対する申し訳なさもあるのだろう。

ハロルドは慌てて妻を抱き締めた。

「どんなに大事にしてたって、やっぱりなくすこともあるよ。ティアが悪いわけじゃない。
それに、もしかしたらどこかからひょっこり出てくることもあるかもしれないしな」
「うん…でも、私、最近よく物を失くすのよ」
「ん?そうなのか?」

ハロルドは妻の言葉を聞きながら、違和感を覚えた。
ティアリスは昔から物を大事にする性質で、物の管理や整理整頓も大雑把なハロルドよりずっと得意だ。

「ティア、責めてるわけじゃないんだが、最近失くした物について教えてくれないか?」
「えっと、セリーヌさんを訪れた翌日だったかしら、ハルがレースを買って来てくれたじゃない?
私が、赤ちゃんの服に縫い付けるために欲しいって言ったからよね。
そのレースも実は見つからないの」

今まで黙っていてごめんなさい、と項垂れるティアリス。
彼女を責めるつもりは毛頭ないが、ますます違和感は大きくなるばかりだ。

「他には?」
「ハルがスイートロールを買ってきてくれた時、食べようと思ったらなくなってたこともあったわ。
ハルが食べたのかとも思ったけど、甘いものはあまり好きじゃないでしょ?」
「ああ、俺じゃないな」
「そういえば、お茶を淹れるために使おうと思ってたカニスの根やフロストミリアムもなくなったわ。
私、どうしたのかしら?」

不安そうな顔をする妻の頭を、ハロルドは「いや…」と言って軽く撫でる。
ティアリスは自分が失くしたと思っているようだが、ハロルドの脳裏には全く別の考えが浮上している。
しかし、それを口にすれば妻をますます不安がらせてしまう。

「あんまり気にすんなって。ほら、引っ越してきたばっかりで、色々勝手が変わったしな。
…というか、もしかしたら忘れてるだけで俺がどっかに入れたかもしれないな。
もしそうだったら許してくれ!」

そう言って、大仰な仕草で手を合わせてみせる。
思わずティアリスはくすくすと笑った。
彼女の笑い声を聞いていると、ハロルドも自然と心が休まるのを感じ、思わず一緒に声を上げて笑った。

 

 

ハロルドもティアリスも、生まれ故郷はウィンドヘルムだ。
妻とは幼少期に知り合った、いわば幼馴染という間柄になる。
ハロルドはウィンドヘルムでも名の知れた名家の三男だが、妻は灰色地区に住むダンマーで、ハロルドと知り合った時には既に天涯孤独の身の上だった。
種族も違えば、全く正反対の立場にも関わらず、それでもお互いに惹かれ合った。
当然ながら、そんな2人に対して周囲の目はウィンドヘルムに吹く風のように冷たい。

ハロルドの父は、ウィンドヘルムに住まうノルドの中では珍しく理性的な人柄で、ノルド以外への偏見も少なくダンマーや港で働くアルゴニアンも彼に信頼を寄せていた。
しかし、自分の息子がダンマーの女性と結婚するとなると話は別だ。
ティアリスと結婚する意思を告げた時、父は激怒し、母親はすすり泣いていた。

それでもハロルドは周囲の反対を押し切り、ウィンドヘルム郊外の小さな家で妻と慎ましく暮らしていた。
実家から勘当されても後悔はない。
しかしウィンドヘルムは、ダンマーであるティアリスにとって暮らしにくい街だ。
いずれもっと住みやすい街…ホワイトランに引っ越すべく、傭兵稼業をして金を貯めていた。
アリンゴスは顧客の1人で、いわばお得意様だった。
彼がゴールデングロウ農園の見張り番の仕事を持って来た時、長期間に渡って家を空ける不安はあったが、それでも提示された金額は非常に魅力的で、請け負うことにした。
アリンゴスが殺されたことで少々番狂わせになったものの、それでも彼のお陰で、こうしてホワイトランに家を購入するという夢が早く叶った。

城壁の中に家を持ち、その街の市民になるというのは、実際は口で言うほど簡単ではない。
その点について、ハロルドはすんなりと上手くいった。
ハロルドの実家は古くからホワイトランと親交があり、過去には同胞団の一員も多く輩出している。それどころか、ハロルドの曾祖父は同胞団の導き手を務めていた。それに、父はホワイトランの首長と個人的な友人同士だ。
そんなこともあり、実家の力がホワイトランに家を持つという夢を後押しし、更には首長の息子の家庭教師という職を手に入れることも出来た。
ハロルドとしては少々複雑な気もしないではないが、これも処世術だと割り切ることにした。

 

 

 

ホワイトランはスカイリムの中でも積雪の少ない地域だが、この日は夜半から降り続けた雪によって白く覆われていた。

 

 

「ねぇ、見て!綺麗ね!粉砂糖をまぶしたスイートロールみたい!」

ハロルドを見送りに出て来たティアリスは、息を弾ませながら無邪気にはしゃいだ。
まるで子供のようなその様子が微笑ましくて、ハロルドは思わず目を細めながら、妻の頭を軽く撫でた。

「おいおい、雪なんかウィンドヘルムにいる時は珍しくも何ともなかったろ?」
「うん、そうなんだけどね。でも、ウィンドヘルムの雪と、ホワイトランの雪は何だか違う気がするの。
ウィンドヘルムの雪は…何ていうか、ただ冷たいばっかりだったもの」
「…まぁな」

あまりいい思い出のない「故郷」のことを思い出したのか、ティアリスは少し目を伏せた。

雪というのは冷たくて当たり前だが、彼女の言わんとすることはハロルドにも理解出来た。
ティアリスの、そしてハロルドにとっても故郷にあたるウィンドヘルムは、年間を通して寒冷な気候で、今頃の時期にもれば連日にってり雪が振り続け、住人の生活を脅かし、時には命さえも容赦なく奪っていく。
あの街では、雪は美しい以上に脅威だった。
更に、住人の心はウィンドヘルムの寒空にも増して冷たいというのはよく聞く話だ。

ティアリスの母親は、モロウウィンドからの難民だったと言う。
父親はウィンドヘルムに住むノルドだったそうだが、詳しくは聞いていない。どちらにせよ、正式に婚姻を結んでいないことだけは確かだ。
ハロルドと知り合った頃には、既に彼女の両親はどちらもいなかった。
ダンマーへの差別意識が強いあの街で、ダンマーとノルドのハーフというティアリスがどれほど苦労して育ったかは想像に難くない。

ハロルドはティアリスを抱き締めると、軽く口付けを落とした。

「雪は綺麗だけど、それでも冷えることに変わりはないから、そろそろ家に戻ったほうがいい」
「うん」
「それと、俺が出かけてる間。戸締りはしっかりしておいてくれ。
知らない奴が尋ねてきても、絶対に開けるんじゃないぞ?
どんなに無害な奴…そうだな、女子供でも、ティアは出ないほうがいい」
「あら、この街だったらそんなに悪い人もいないんじゃないかしら?」
「…だと思うけどな。でも、一見無害そうな奴でも性質の悪い奴ってのはどこにでもいるからな。
さて、そろそろ行って来るよ」
「うん。行ってらっしゃい、ハル」

妻の笑顔に見送られながら、ハロルドはドラゴンズリーチへと向かう。
何ということはない、ささやかな日常。
しかし、これこそが幸せというものなのだろう。

その幸せを噛み締めながら、それでもハロルドは、忍び寄る影に怯えてもいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よく出来ました…と言いたいところですが、ここの単語の綴りが間違っていますよ、坊っちゃん。
ここだけもう一回やり直しです、いいですね?」
「えーっ」

家庭教師であるハロルドの指摘に、不満たらたらの声を上げて机に突っ伏すのは、バルグルーフ首長の長男にあたるフラザーだ。
わかりやすい態度を示す少年に、思わず苦笑を浮かべながら、新しい紙を差し出す。
しかしフラザーは、苦々しい顔立ちで首を左右に振るばかりだ。

「僕もう疲れた!ずーっとペンを握ってたから手がくたくただよ!もう無理無理!」
「うーん、困ったなぁ」
「そんなことより、ハロルドは昔は傭兵してたんだよね?やっぱり各地を回って、時には山賊と戦ったりもしてたんでしょ?
いいなぁ、僕も早く剣術を習って悪い奴らを懲らしめに行きたいよ」

そう言いながらフラザーは、剣を構えて振り回す仕草をする。
そんな少年の様子を見ながら、ハロルドは目を細め、自分もこれぐらいの年齢の頃は冒険や山賊退治に憧れたものだと思い出した。

「ハロルドだってさ、家庭教師なんかやってると退屈でしょ?」
「いやぁ、そんなことはありませんよ。首長からこのお仕事を頂けて光栄に思っていますよ」

これは紛れもない本心だ。
言う間でもなく傭兵稼業は常に死と隣り合わせの危険な仕事で、冒険や戦いというのも決して良い側面ばかりではない。
だからこそ、ハロルドは傭兵稼業を辞めて家庭教師という職に就いた。
今はホワイトランの城壁の中で家庭を築き、家族を守っていくことがハロルドの最大の関心事だ。
傭兵稼業の中で、何度か窮地に陥り死が間近に迫った時、血沸き肉躍り生を実感するという瞬間もあった。今後の平穏な人生の中ではそういう瞬間はもうないだろうが、だからと言ってあの頃に戻りたいとは露ほども思わない。

(そうだ)

ハロルドはあることを閃いた。

「そうだ、坊っちゃん。
制限時間内に今日の課題を終えたら、残った時間で私の冒険譚をお聞かせするというのはどうです?
つまり、早く終えれば終えるほど、その時間が長くなるということですが」
「本当!?わぁぁ聞きたい!すっごく聞きたいな!」
「ああ、それは良かった。では、早速」

ハロルドが再び紙を差し出すと、フラザーは今度は真剣に取り掛かった。
その結果、彼はハロルドの想定以上に短時間で今日の課題を終わらせた。
念のために行ったテストも、難なく及第点を叩き出した。

「素晴らしい」
「へっへーん!よっし、これで今日の勉強終わりだよね?」
「はい、頑張りましたね。
では約束通り…」

そう切り出すと、フラザーは居住まいを正して真剣に聞き入る体勢に入る。
どの体験にしようかと一瞬考えた後、ハロルドはゴールデングロウ農園の一件を話して聞かせることにした。
もちろん、実際に起きたことをそのまま語るわけではない。
ハロルドにとって都合の悪い部分は削り、冒険譚として面白くなるように脚色を加え、わかりやすい勧善懲悪に仕立てた。
もちろんメイは一切酌量の余地のない完全悪という扱いで、ハロルドと傭兵仲間が力を合わせてその悪を退治したという筋書きだ。
ハロルドは会話術は得意なほうで、どうやら少年の心を掴むことにも成功したらしく、フラザーは最初から最後まで彼の話に耳を傾けていた。

仕事を終えたハロルドは、朝よりも軽快な気分で帰路に就く。
自分の体験をフラザーに話して聞かせる際、敢えてゴールデングロウ農園の一件を選んだのは、誰かに話してしまいたかったからという側面が強い。
とは言え、事が事だけにそう易々と他者に打ち明けられるものでもない。
しかし、子供に聞かせる冒険譚という形にして言葉に出したことで、心に燻っていた自己嫌悪や後悔まで一緒に流れ出たような心地だ。
自宅の近くまで帰ってきたところで、唐突に背後から声が聞こえた。

「ふぅん…自分の都合の悪いことだけ話さなかったんだ?」

聞き覚えのあるその声に、ハロルドは思わず固まった。
慌てて振り返り、周囲を見渡したが、それらしい姿は見えない。
暫くそのまま佇んでいたが、おそらくは空耳だったのだろう…と自らに言い聞かせて再び歩き始めるが、心臓がうるさいぐらいに脈打っている。
家に着くまでの間、ハロルドは気が気ではなかったが、もうあの声が聞こえることはなかった。
それでも自宅の扉に手を掛けた時、胃が痛くなるような緊張を覚えた。
扉を開けると最悪の光景が彼を待ち受けている…そんな想像をせずにはいられない。

意を決してブリーズホームへと足を踏み入れると、食欲を刺激する匂いが漂ってきた。
ハロルドが帰宅した気配を察し、ティアリスが奥の厨房から顔を覗かせる。

「お帰りなさい、ハル!」
「…ティア?」
「あら、どうしたの?まるで幽霊でも見ちゃったみたいな顔して」
「いや…」

いつもと変わらぬティアリスの笑顔に迎えられ、ハロルドは心の底から安堵を覚えると同時に緊張の糸が切れるのを感じた。
思わず床に崩れ落ちそうになる代わりに、重力に任せるままに椅子に腰を下ろした。

「大丈夫?随分と疲れてるみたい。
夕食は私が作るから、出来上がるまでもうちょっと待っててね」
「いや、大丈夫だよ。俺も手伝うよ。
…と、その前に」

身を翻して厨房へと向かうティアリスを追うように立ち上がり、彼女に追い付くと背後から抱き締めた。
こうしてティアリスの温もりと柔らかさに触れていると、理屈抜きに心が安らぐのを感じる。

帰路の途中で聞こえたあの声は、間違いなくメイのものだった。
しかし姿は見当たらなかった。そう、まるで気味の悪い亡霊のように、実体を持たぬまま気配と痕跡だけを残していく。
あの声はハロルドの不安による空耳だったのか、あるいは…

「ハル?」
「いや、その…大したことじゃないんだ、慣れない仕事でちょっと疲れたかな」
そう言って照れ笑いを浮かべながらティアリスから手を放す。

ティアリスはハロルドへと向き直り、暫し無言で彼を見詰めていたが、やがて口を開いた。

「ねぇ、ハル」
「ん?」
「何か悩んでいることや困っていることがあるなら、いつでも話してね」
「ああ、うん」

言葉少なに、声音だけは努めて明るく言った。
ティアリスの心遣いはありがたかったが、さすがにこればかりは彼女にも打ち明けられない。
厨房へと入って行ったティアリスに続こうとしたその時、ハロルドは床に何かが落ちていることに気付いた。
拾い上げると、それは髪の毛だった。
その長い金髪は、もちろんハロルドのものでもティアリスのものでもない。

 

 

 

 

 

 

それから数日が過ぎた。
その間は特に何も起こらなかったが、相変わらず例の夢を見ることはしばしばあった。むしろ、帰路であの声を耳にして以来、ますます頻繁に見るようになった。
夢にメイが出てくる度、ハロルドは目が覚めた時にはいつも心身共に疲労していた。

そんなある日、仕事が休みの夫に、ティアリスはこんな提案をした。

「ねぇ、ハル。今日は『北風の祈り』の日だし、キナレス聖堂に立ち寄ってみるのはどう?」
「ん?聖堂に?」

妻から言われて、ハロルドは今日が何の日なのか初めて思い至った。
祝日で仕事がない日、程度の認識しかなかったのだ。

「そっか、今日は聖堂で祈りを捧げる日だったよな…って、何に対しての祈りだっけ?」
「もう、ハルったら。豊作と穏やかな冬に対して祈りを捧げる日よ。
それに、聖堂の祝福を半額で受けられる日だから…って言ったら罰当たりだけど、これから生まれてくるこの子のためにも、ハルに祝福を受けて来て欲しいの」
「ああ、なるほどね。
ティアは一緒に行かないのか?今日は天気もいいことだし、散歩がてらどうだ?」
「私は、ちょっと体調が思わしくなくて…今日はハル1人で行ってくれる?」
「ああ、わかった…でも、大丈夫なのか?」
「うん、平気よ。そんなに体調が悪いっていうほどでもないの。でも、出かけるのはしんどいかな?っていうぐらい」

そんな遣り取りがあり、ハロルド1人で聖堂に向かうことなった。

ハロルドは九大神を信仰するノルドだが、そこまで信心深いわけでもない。
信心深くないとは言っても、聖堂へと足を踏み入れると、自然と厳かな気持ちになる。
この聖堂で祭られているのはキナレスだ。

「北風の祈り」の日というだけあって、聖堂には結構な数の人々が集まっている。地元の住人だけではなく、旅人や巡礼者らしき者の姿も目立つ。
そんな中でセリーヌの姿を見つけたが、彼女の周りには人だかりが出来て忙しそうに立ち回っていたため、声をかけることはしなかった。

後で彼女の手が空いたら祝福を頼むことにして、ハロルドは女性の姿をした神像…つまりキナレス像の前に跪き、彼女に祈りを捧げる。
無論のこと、神像はキナレスを象ったもので、キナレスはノルドの間では嵐の女神カイネとしても知られている。
自然や動物の守護神であり、古代のノルドに声秘術を授けたという逸話もあり、何かと人間と縁の深いエイドラだ。
ならば、今のハロルドが祈りを捧げる対象としてこれほど相応しい神はいないのではないか。
災厄を遠ざけ、妻を、生まれてくる子を、そして自分たちの未来を守って欲しい。それがハロルドの願いだ。

暫くして、ゆっくりと顔を上げる。
いつのまにか、ハロルドのすぐ近くで、若い娘が彼と同じように跪いて祈りを捧げている。
艶やかな黒髪に隠れて顔は見えないが、彼女もまたハロルドと同じように誰かを想って祈っているのだろうか。

しかし、どうも彼女とはどこかで会ったことがあるような気がした。正確には誰かに似ているのだが、それが誰なのか思い出せない。
顔を上げてくれれば思い出せるのだが、そんなことを考えていると、その娘を挟んだ向こう側にいるセリーヌと目が合った。
先ほどより人数は減ったものの、彼女はまだ数人に囲まれていたが、彼らに小さく頭を下げるとハロルドのほうへと駆け寄った。

「ハロルドさん、こんにちは」
「やぁ、セリーヌさん。あの、いいんですか?」
「はい、私がハロルドさんにお話ししたいことがあったので、少し待って頂いています」
「えっ、俺に?」

意外な言葉に、ハロルドは少しばかり驚いた。
セリーヌは頷き、こちらに、とハロルドを促しながら歩いて行く。

彼女について行くと、聖堂のやや奥まった場所へと案内された。
完全に閉ざされた空間というわけではないが、聖堂を訪れる人々からは一定距離を置いた場所で、ここでなら会話もしやすい。

「何日か前、ハロルドさんがお仕事に行っていらっしゃる間に、ティアリスさんにお茶をよばれたんです。
その際に、ハロルドさんが…その、時々元気がないとお聞きしたんです」
「ティアがそんなことを…」

ここに至り、ハロルドは妻の意図を理解した。
夫婦間では話しにくいことでも、聖堂で治癒師をしているセリーヌになら打ち明けられるのではないか、そう考えたのだろう。
セリーヌは聖職者にして医者のような立場で、聖堂を訪れる人々の悩みや懺悔を聞くことも多い。
ハロルドは、妻の心配りに胸が熱くなるのを感じた。

セリーヌが、憂いを湛えた双眸で見つめてくる。

「ハロルドさんは、ホワイトランへと引っ越してこられる前は傭兵稼業をされていたと仰いましたよね?
そういう方は、その仕事から手を引いた後も、長きに渡って誰にも言えない悩みを抱えることも少なくないんです。
もし、ハロルドさんが何かお悩みでしたら、私で良ければ聞かせて頂けませんか?」

セリーヌの言葉に、ハロルドは深く溜息を付いた。
ずっと張り詰めていた糸が緩んだような、そんな安堵感を覚えたのだ。
身重の妻を不安にさせたくなくて、何よりも自分がしたことを知られたくなくて、ティアリスには打ち明けられずにいた。
それでも、誰かにこうして手を差し伸べて欲しかったのだ。

セリーヌと知り合ってからまだ日は浅いが、ハロルドは初めて会った時からこの人が好きだった。
もちろん懸想しているわけではないが、彼女の柔らかな雰囲気や包容力のある優しさには心惹かれるものがあり、それ故にこの人になら話せると思った。

「すみません、セリーヌさん。少々、懺悔などを聞いてもらえますか?」
「はい、私でよければお話を伺いますよ」
「実は、その…」

ハロルドは、ここ最近抱えていた不安のことを、訥々と語り始めた。
しかし、一時の欲望を満たすために、年若い娘を凌辱して楽しんだことまではさすがに話せなかった。
傭兵という仕事の中で、仕事の枠を越えて酷いことをしてしまい、その罪悪感がある。自分がその報いを受けるだけでなく、大切な存在にまで災厄が降り掛かるのではないか。そのように打ち明けた。
セリーヌは相槌を打ちながら、ハロルドの話に真剣に耳を傾けてくれた。

「…と、そういうわけなんです。
最近この街に引っ越してきたばかりで、仕事も変えたりして、既に出来上がった共同体に飛び込む不安なんかもあるのかなーなんて」
語り終えたハロルドは、そう言いながらわざと陽気に笑った。
ここ最近、ずっと心に溜まっていたものを言葉にしたことで、根本的な解決には至らないものの、幾分か心が軽くなった気がした。
セリーヌはずっと口を挟んだり急かしたりすることなく聞き入っていたが、やがて口を開いた。

「なるほど、わかりました。
ハロルドさんに伺ったお話について私からご意見をさせて頂く前に、私も少々自分のことを話しても構いませんか?」
「あ、はい。是非とも聞きたいです」
「ありがとうございます。
実は私には娘がいるんです。
オデットと言うのですけど、数年前からウィンターホールド大学で回復魔法を専攻していまして、その課程を修了したので、近々この聖堂に来る予定です。彼女もここで一緒に治癒師として働いてくれます」
「娘さんがいるんですか」

ハロルドは少々意外に思った。
セリーヌは、20を越えたばかりの年齢に見える。魔法大学に通う年の娘がいるということは、見た目以上の年齢ということか。
とは言え、その尖った長い耳は彼女が長寿種族であることを示しているし、よく考えれば不思議ではない。
セリーヌの娘なら、きっと心優しい女性なのだろうな、ハロルドがそんなことを思っているとセリーヌは微笑んだ。

「とても優しくて思いやりのある子なんです。
ハロルドさん、是非ともあの子と仲良くしてあげてくださいね」
「ええ、喜んで」

セリーヌは一旦言葉を切ると、ふと遠くを眺めるような目をした。

「先の大戦のことは、ハロルドさんもよくご存知ですよね」
「はい。俺が生まれるよりも前に終結しましたが…まさか、セリーヌさんは」
「当時の私は、シロディールのアルケイン大学でマスターウィザードを務めておりました」
「えっ、アルケイン大学…マスターウィザード?」

その言葉に、ハロルドは大いに驚いた。
スカイリムに生まれスカイリムで育った生粋のノルドであるハロルドにとって、魔法への造詣など皆無に等しいが、それでもアルケイン大学と言えば最高峰の魔法大学として有名だ。符呪器にもその名が用いられている。
それに、マスターウィザードというのが相当な実力を持つ魔術師にのみ許される称号だというぐらいの知識はある。
どうすればその地位に就けるかなどは知る由もないが、容易でないことは確かだ。
セリーヌという女性は、ただ穏やかで優美なだけはなく、どうやら相当な傑物らしい。
彼女は「はい」と小さく頷き、言葉を続ける。

「アルドメリ自治領の使者が当時の皇帝に法外な要求を突き付け、それを拒否されると、サマーセット島とバレンウッドで密偵をしていたブレイズ全員の首をばら撒いた逸話はあまりにも有名ですね。
…私の婚約者の首も、その中にありました」

ハロルドは頭を強打されたような衝撃を受けた。
立っていられなくなりそうになり、思わず壁に片手を付くが、セリーヌは淡々と話を続ける。

「大戦が始まると、私は自ら望んで帝国軍として戦いに身を投じました。
衛生兵という立場でしたが、私には弓と氷の破壊魔法の心得もあるので、時にはそれらをもって敵を屠りました。
そう、当時の私にとってアルドメリ自治領は、婚約者の仇そのものだったのです」

「私たちも奮闘しましたが、戦争開始から約3年後、ついに帝都はアルドメリの手に落ちました。
帝都を象徴する白金の塔が奪われ、宮殿も焼かれ…復讐に燃えるエルフたちによって、多くの人々の血が流れました。
私は…それでも敢えて帝都に背を向け、当時の皇帝…タイタス2世に付き従い、街の北部に脱出し、スカイリムからの援軍と合流して進軍を続けました」

「そして、戦いは、今では赤輪の戦いとして知られる戦闘へと突入したのです。
私は皇帝自ら指揮を執る主力軍として参戦しており、後はご存知の通り、帝都の奪還に成功しました」

そこでセリーヌは言葉を切ると、小さく苦笑した。

「戦いの最中、気付けば私は味方の軍から切り離されていました。
私はあの大戦の中で、知らずの内に功績を上げていて、それ故にアルドメリからすれば許し難い存在だったのでしょうね。
何しろ、帝国軍兵士として従軍し、何人もの同胞を屠ったのですから」

そう言って再び言葉を切ったが、今度は先よりも長い間があった。
ハロルドは続きを聞きたいという気持ちと、それ以上は無理に話さないで欲しいという気持ちと、相反する感情がない交ぜになっていた。
しかし、ハロルドが何か言うよりも先にセリーヌが口を開いた。

 

「私は殺されはしませんでしたが、アルドメリの手に落ち、彼らの捕虜として約2年過ごすことになりました」

「その2年間については…まぁ、何と言いますか…」

「正直、あまり思い出したくはありませんね…」

「セリーヌさん…」
「…私の友人に、アルドメリの上層部に顔が利く女性がいて、彼女が交渉してくれたお陰で解放されました。
私は、その時に誰が父親かもわからない子を身籠っていました」

ハロルドは再び衝撃を受けた。今度は先以上に強烈だ。
それと同時に、もうすぐ娘がやって来るのだと告げたセリーヌの言葉が脳裏に蘇った。

「まさか、娘って…」
「そう、その時に身籠った子こそ、私の娘のオデットです」

そう言って笑顔を見せるセリーヌに、ハロルドは掛ける言葉が見つからなかった。
敵の捕虜となり、誰の子ともわからぬ子を身籠る、それがセリーヌにとってどれほど辛く屈辱的なことだったか、察するにあまりある。
なのに、どうしてこの女性はこんなにも穏やかに微笑むことが出来るのだろう。

「許せるんですか、そいつらを」
「いいえ、今でも許すことは出来ません」

穏やかに、しかし確たる口調で彼女は言った。
困惑するように自分を見つめる彼に、「ハロルドさん」と呼びかける。

「それでも私は娘を愛し、この子が生まれてきてくれたことに感謝しています。
だからと言って、婚約者の仇を、私を生かしたまま弄んだ者を、許すことは出来ません。
…矛盾しているように感じるかもしれませんね」
「そう、ですね…俺にはちょっと難しすぎる、かな」
「戦争というのは結局のところ異なる正義のぶつかり合いで、そこには善悪などないのです。
私自身、あの戦争で多くの同胞を屠りました。
実際に手をかけた相手だけではなく、治癒士として味方を援護したことも含めると、もっと多くの命を奪ったことでしょう。
そういう意味で、私も彼らも何ら変わりはないのです。
でも、「私は」彼らを許せない。そして、許す必要もないと考えています」

「ハロルドさんは傭兵稼業の中で、酷いことをしてしまったと仰っいましたよね。
それは、おそらく何らかの形で敵対していた女性を弄んでしまったことではありませんか?」
「……!」

言い当てられ、ハロルドは言葉を失ってしまう。
真っ直ぐにこちらを見つめるセリーヌの目には、非難の色は見られないが、しかしそれでも非常に決まりが悪い。

「あなたは、その女性にしたことそれ自体に加え、ティアリスさんを裏切ってしまったという罪悪感に苛まれているのではありませんか?」
「それは…う…はい、その通りです」
彼は言い淀んだが、セリーヌの目は何もかもを見透かしているような気がして、結局は素直に認めた。
そのまま項垂れ、長い溜息を付いた。

「ははは、セリーヌさんは何もかもお見通しだなぁ。
ええ、全くもってご明察としか言えない。
わかってるんです、自分でも許されないことをしたって」

そう言って自嘲的に笑う彼に、セリーヌは再び「ハロルドさん」と呼びかけた。

「どうか、顔を上げて頂けませんか」

そう言われて、やはり抵抗感はあったものの、それでもハロルドは恐る恐る顔を上げた。

「その女性は、きっとあなたのことを許さないと思います」
「はい…」
「でも、あなたはその時その時で精一杯やってきた。いつも、最善と思えることを選んできた。違いますか?」
「それは…そう、かもしれません」
「私もです。私が許せないといった彼らだって、きっとそうだったと思います。
それに、大戦で功績を上げた…つまり、それだけ多くの血を流させた私を許さないという人も間違いなく存在するでしょう。
何しろ、私は『敵だから』という理由で誰かとっての大切な人を何にも殺したのですから」

「でもね、思うんです。
誰かを許せなくても、誰かに許されなくても、それでいいのじゃないでしょうか?
だからね、ハロルドさん」

そう言って彼女は、にっこりと微笑んだ。

「自分を許してあげてください。
その女性があなたと許さなくても、ハロルドさんはハロルドさんを許すのです。
『許されない罪』なんてよく言いますけれど、そんなの誰が決めるのでしょう?」
「それは、やっぱりその罪によって傷付いた相手が…あっ」

言いかけたところで、ハロルドはあることに気付いて声を上げた。
そんな彼を見て、セリーヌが満足そうに頷く。

「そう、『許されない罪』なんていうのは結局個人の感情に過ぎないんです」
「個人の、感情」
「はい。
人の作った法が適応される場合もありますが、そうでない場合も多くある。
そして、私にとって筆舌に尽くし難いほどの体験は法の適応される範囲を超えており、となれば罪を償わせるという話になれば、私個人で報復するしかありません。
…でも、報復する対象が多すぎて、とても現実的な話ではありません。
だからと言って、彼らを許せるかというと、また別次元の話となってきます。
…だから、私は彼らを許さないまま生きています。
彼らを許さなくとも娘を愛することは出来るし、日々を楽しみ、未来を見つめることも出来ます。
それは、私が『彼らを許さない私』を許したからなのですけど。
ハロルドさんも、どうかご自分を許してあげて下さい。
あなたは酷いことをしたと言ったけれど、それだけではないでしょう?
ここホワイトランで家を持つまで苦労されたと思いますが、それもティアリスさんのためではありませんか?」

そう言われて、彼は弾かれたように顔を上げた。

「自分自身を許し、そしてハロルドさんにとって大事なものに目を向けてください」
「セリーヌさん…」
目に見える変化が起きたわけではないが、にも関わらず、ハロルドは心の奥底で凝り固まっていた何かが解けていくのを感じた。
それは、陽光に温められた雪が解けて、その場所に緑が芽吹く光景にも似ている。

ティアリスが首に掛けたアミュレットを外し、それをハロルドの首に掛けてきた。

「これは?」
「キナレスのアミュレットです。ハロルドさんに差し上げます。
キナレスの風に乗って、どうかあなたに甘い香りだけが届きますように。
ハロルドさん、あなたとあなたのご家族には明るい未来が待っていますよ。
そうか顔を上げて、一緒に笑い合い、精一杯生きてください」
「あ…ありがとうございます」

銀製のアミュレットは触れると冷たい筈だが、ハロルドは温もりを感じた。
心に小さな火が灯り、それが心と身体を温めてくれているかのようだ。
ティアリスはいつものように穏やかな笑みを浮かべてハロルドを見つめていたが、不意に「あっ!」と顔を上げた。

「いけない!
礼拝に来て下さった皆さんをお待たせしてました!
ごめんなさい、ハロルドさん。私、今日は持ち場に戻りますね」
「いやいや、こっちこそお時間取らせちまってすみませんでした。
それと、ありがとうございました、セリーヌさん」

セリーヌは肩越しに振り返り、穏やかな笑顔を見せた。

聖堂を出る頃には、すっかりハロルドの足取りは軽くなっていた。
聖堂から出る寸前になってふと先ほどの黒髪の少女のことを思い出し、その姿を探してみたが、既に聖堂内には見当たらない。
ハロルドは、あの少女とどこかで会ったことがある気がしたが、おそらくは気のせいだろうと結論付けることにした。それを最後に、少女のことなど意識から消えた

初めて会った時から、セリーヌのことを不思議な魅力を持つ女性だと思っていた。
セリーヌがアルケイン大学のマスターウィザードで、しかも大戦に身を投じたばかりか、皇帝が率いる主力軍に所属していたことには心底驚いたし、その後に彼女を襲った運命は聞いているだけで胸が痛んだ。
ハロルド自身、彼女を捕らえた連中と同じことをしたから尚のことだ。
セリーヌは心優しいだけではなく、自らの過去も決して消えない憎しみも受け入れた上で、それでも世界は美しいと微笑む、そんなしなやかな強さも持ち合わせている。

そうだ、何も不安に思うことなどない。
幸せに満ちた未来だけを見据えながら、ハロルドは愛する妻が待つ家へと急ぐ。

 

市場へと差し掛かった時、見慣れぬ露店が開いているのを見つけて足を止めた。
その露店にはあまり馴染みのない品々が並んでおり、それらを販売する店員も長い貫頭衣に仮面という珍しい恰好だ。

仮面に覆われているために店員の目線はよくわからないが、どうやら目が合ったらしく、ハロルドに手を振ってみせた。

「どもども、期間限定で商売させて頂いてます。
遥か北方、スカイリムの最北のウインターホールド大学から来た珍しい逸品ですよ。
おひとついかがですか?」
「へぇ、ウィンターホールド大学か」

セリーヌがアルケイン大学で教鞭を取っていたという話を聞いたばかりということもあり、興味を覚えたハロルドは露店を覗くことにした。
羊皮紙の巻物や大小様々な書物、不思議な輝きを放つ宝飾品や宝石類が所狭しと並んでいる。しかし、ハロルドにはそれらを宝飾品ではなく魔法道具として見る場合にどういった値打ちがあるのかわからない。
そんな彼の様子を見た店主が説明する。

「見たところ傭兵さんですかね?
でしたら、回復魔法を封じ込めたスクロールや、あるいは符付を施したアクセサリーなんかどうですかね?」
「いや、生憎と傭兵稼業はもう卒業した。
でも、もうすぐサトゥラリアだからな。妻に何か買ってやりたいんだが、何がいいだろう?」
「ほぅ、奥様にですか。そうですねぇ…旦那はノルドだから寒さに強いでしょうけど、奥様はどうです?」
「いや、彼女はエルフだから、スカイリムの寒さは辛いだろうな、
何か暖を取るのに適したアイテムでもあるかな?」
「はい、少々お待ちを」
店主は喜々とした口調で言って、自分の背後にある荷物の山を漁り始めた。
やがて細長い布のようなものを手にしてハロルドに向き直る。

「このマフラーはいかがでしょう?
これはね、一見すると普通のマフラーですが、冷気耐性の符付を施した逸品なんですよ。
そうだ、試しにちょっと巻いてみてください」

そう言われてそのマフラーを首に巻いて、ハロルドは驚いた。
何とも温かい。
マフラーを巻いたからというだけではなく、全身を暖かな空気が包み混んだかのようだ。
ハロルドの表情を見て、店主はますます気を良くして言った。

「素晴らしいでしょう?
スカイリムの厳しい寒さから守ってくれる他、冷気の魔法への耐性もぐんと高まりますよ。
まぁ、壁内で生活する善良な市民なら後者の効果はあまり必要ないかもしれませんが、それでも冬を過ごしやすくなることは間違いなしですよ」
「へぇ!いいな、これ!よし、買った!」
「はい、毎度ありー」

値段は張ったが、それでも妻が喜ぶ顔を思えば、そんなことも気にならない。
露店に背を向けた時、見覚えのある男とばったり遭遇した。

同胞団のヴィルカスだ。

「お、ハロルドじゃないか。買い物か?」
「ヴィルカス!ああ、ティアへのプレゼントを買ったんだよ。もうすぐサトゥラリアだからな」

ヴィルカスとは幼少期からの知り合いで、幼い頃に父に連れられてホワイトランを訪れた時には、ハロルドの兄たちや彼の兄のファルカスも含めた人でよく遊び回ったものだ。

「へぇ、相変わらず仲がいいな。羨ましいぞ」
「だろ?ティアは本当に素晴らしい女性だ。俺の自慢なんだ。
…そーいや、ファルカスは今日は一緒じゃないのか?」
「お前な、ガキの頃と違って今は四六時中一緒に行動するわけじゃあない。
兄は今、マルカルスに遠征中だよ」
「マルカルスか…随分遠くまで行ってんだなぁ」

ヴィルカスは頷きながら、露店に並んだ様々な魔法道具を眺める。そんな彼を見て、ハロルドは意外に思った。

「お前も買い物か?
っていうか、こういうのは好まないと思ってたんだがな」

ノルドの大半は魔法というものを信用していない。
ましてや同胞団の一員となれば、自分自身の力だけを信じることを美徳とし、魔法や符呪といった小細工を好まない傾向が非常に強い。符呪を施した道具で己の力を底上げするなど恥だというのが彼らの価値観だ。
まぁな、とヴィルカスは曖昧に答えた。

「正直なところそうなんだが、スカイリムの住人は総じて魔法に対する危機認識が薄すぎる気がしてな」
「危機認識、ねぇ」

彼の言葉を反芻しながら、ハロルドはゴールデングロウ農園の件を思い出した。
あの時は何が起きたのかわからなかったが、後から冷静に考えたところ、事を終えたところを見計らってメイに何か怪しい術をかけられたらしい。言い様のない脱力感に襲われ、目と鼻の先でメイを逃がしてしまった。
あれは、この女にはもう大した抵抗など出来まいと、完全に油断していた結果招いた過失だ。

「そうだな、一理あると思う。魔法ってヤツをただ軽視するんじゃなく、もう少し理解する必要ってのは俺も感じるよ。
魔法に長けた奴が何か悪巧みした際にも、対処の仕方が変わってくる筈だ」

ハロルドがそう言うと、彼は満足そうに頷いた。

「そう、俺が言わんとしているのもまさにそういうことなんだ。
最近起きた厄介事の中には、どうやら魔法が絡んでいると思しき案件も少なくない。
『魔法は武器で戦えない卑怯者の使う技術』なんて軽視するのではなく、もう少し理解を含め、危機認識を持つべきなんだ。
ところが現状は魔法に関しての法整備などはまだまだ遅れている」

なるほどな、とハロルドは頷いた。
ヴィルカスは同胞団のサークルの一員で、有能な戦士だが、同時に理知的な人物でもある。
彼のように多角面から物事を考えられず人材は稀有だろう。
ハロルドとしても彼の案に興味はあったが、あまりティアリスを待たせるのも気が引けて、また近い内にファルカスも交えて飲み交わす約束をしてこの日は別れた。

…その「約束」が果たされる日が永遠に訪れないことなど、彼はまだ知る由もない。

セリーヌという良き隣人からありがたい助言を受け、しかも短い時間だったが旧友とも話せた。
更に家では最愛の妻が彼の帰りを待っている。
幸せな気分のまま家路を急ぐ。

 

「ただいま、ティア。今帰ったよ」
「お帰りなさい、ハル」

ハロルドが家に着くと、ティアリスは長椅子に座って編み物をしている最中だった。
立ち上がろうとする彼女を身振りで座ったままでいるように促し、その隣へと腰を下ろす。

「セリーヌさんに会えた?」
「ああ、ティアが事前にセリーヌさんに伝えておいてくれたんだな。ありがとう。
何か、彼女に話を聞いて貰えたお陰で、気が楽になったよ」
「うふふ、良かった。
最初はね、私がハルの力になりたくてセリーヌさんに相談してたんだけど、彼女の話を聞いている内にこの人のほうがハルにとってもいい相談相手になってくれるんじゃないかなって思ったの。
私、傭兵稼業のことも、戦いのことも何もわからないから」
「いや、ティアは十分に俺の力になってくれてるよ。ティアがいてくれて本当に幸せだ」
「私もよ、ハル。
でも、セリーヌさんは本当に凄い人よね」
「ティアも彼女の過去を聞いたんだな。正直驚いたよ。
…あ、そうだ。さっきティアにプレゼントを買ったんだ」

そう言ってハロルドはマフラーの入った包み紙を手に取ったが、ティアリスがそれを留めた。

「あ、待って。それってサトゥラリアのプレゼントよね?」
「うん、そうだけど今から使すぐにでも使って欲しいんだ」
「うーん…とっても気になるけど、でもやっぱりサトゥラリアまで我慢する」
「…仕方ないなぁ」

ハロルドは苦笑して妻を抱き締めた。
ティアリスは朗らかで、子供のように無邪気な面もある。

「サトゥラリアのプレゼント」に拘るというのは、あまりにも彼女らしくて、ハロルドは愛おしさが込み上げてきた。
くすくすと笑いながら、ティアリスもまたハロルドの背に手を回す。

「ティア、愛してる」
「私も愛してるわ、ハル」

そう言ったきり、無言のままで抱き合った。

 

 

 

それから何事もなく日々が過ぎた。
その間、物がなくなることもなければ、おかしな声が聞こえることもなかった。
やはり先日のことは、何もかもが気のせいだったのだとハロルドは思った。今となっては、やはりあの女は死んだのだと確信している。

物をよく失うように感じたのは、引っ越ししたばかりで物の収納場所が変わってしまい、どこに何を入れたか混乱していたからだろう。
自宅で長い金髪を見つけたのも、前の住人のものが残っていただけに違いない。念入りに掃き清めたとは言え、1本ぐらい見過ごしてしまうこともある。
あの女の声が聞こえた気がしたのは、ハロルドの不安からくる幻聴だった。
全ては、日常で起きた些細なことをハロルド自身が悪く捉えていただけに過ぎない。

本日の仕事を終えたハロルドは、軽やかな足取りで帰路を歩いている。
明日はいよいよサトゥラリアの日で、仕事も休みだ。
先日購入したマフラーを妻に渡し、喜ぶ顔を見るのが今から楽しみで、思わず口元に笑みが浮かぶ。

その時、前方に妻の姿を見つけた。
きっと迎えに出て来てくれたのだろう、寒いから家で待っていてくれればいいのに、そんなことを思いながらも嬉しくなってしまう。
ハロルドが思わず駆け足になって妻に近付くと、彼女の様子がどこかどこか変だということに気付いた。足下が覚束ないように見える。
もしかしたら体調が思わしくないのかもしれない、そう考えたハロルドは、彼女の側まで距離を詰める。

「ティア!」
「あ…ハル…」

ティアリスの背に手を添えながら、不調の色を伺うようにティアリスの顔を覗き込むと、深紅の双眸がハロルドを捕らえた。
ハロルドは、そこに明確な恐怖が浮かんでいるのを見取った。

「どうした、ティア?何かあったのか?具合でも悪いのか?」
「ハル、私…あ…物音が聞こえたから、それで…」

ティアリスは何とか言葉を紡ごうとするが、上手く構築出来ずにいる。そうしている間にも、ティアリスの顔からは血の気が引いて行き、ダンマー特有の暗青色の肌がそれとわかるほどに青ざめている。
ハロルドは彼女を抱き締め、落ち着かせようと背を撫でる。

「ティア、少しずつでいいからな。
何があったか、話して欲しい」
「ち、地下室に…」
「地下室?」

ティアリスは掠れた声で言ったきり、それ以上は言葉を紡ぐことなく小さく頷いた。

「そこに何かあるんだな?」

再び頷くティアリス。
ハロルドは、そんな妻を伴って家の中へと入った。
中から鍵を掛けると、ティアリスへと向き直る。

「ティア、俺は今から地下室を見てくる。
その間、ティアはここで待っててくれ」

ティアリスは気遣わしげな表情で夫を見返しながら、それでも頷いた。彼女の視線に見守られながら、ハロルドはカンテラを用意して、地下室へと降りていく。
整然と片付いた地下室は、ごく最近降りてきた時のままだ。
荒らされた風もなく、特に何も変わりないように見えたが、見慣れない麻袋が無造作に置かれていることに気付いた。

丁度、棚や木箱の影に隠れる位置にあるため、初めの内は見落としていたようだ。
ハロルドが慎重にその麻袋へと近付くと、その袋から水が漏れて地下室の床を濡らしていることに気付いた。
中身は何だろうか、そんなことを考えながら膝を着いた時、据えた鉄錆のような嫌な臭気を感じた。
傭兵稼業の中では、すっかりとお馴染みだったこの臭気には、嫌というほど覚えがある。

血だ、とハロルドは確信した。
この麻袋から漏れているのは水などではない。血だ。
とすれば、この中身は…。

正直言って、中を検めるのは気が引けたが、しかしティアリスを怯えさせたものの正体は暴かなければならない。
ハロルドが恐る恐る袋へと手を伸ばし、袋の中身を確認した瞬間、思わず「うわっ」と呻いて後退ってしまった。
床に置いたままの麻袋から距離を取りながらも袋から目を離すことが出来ず、心臓が早鐘のように打っている。

「何だよ、あれ…」

思わずそう呟いたが、その袋の中身については、ある程度見当が付いている。
しかし、それが間違いであって欲しいという思いは否めない。
ハロルドは暫く距離を置いたまま麻袋を眺めていたが、こうしていても現状は何も変わらない。
意を決して再び麻袋へと近付き、その口を開いて中身を覗き込む。

ハロルドの思いに反して、嫌な予感は当たっていた。
麻袋の中に詰まっていたもの、それは切り落とされた人体の一部だ。更に正確に言えば、男根だった。十数人分はあるだろうか。
ハロルドは込み上げてくる不快感を抑え込みながら、麻袋から顔を背けた。

いったい誰が何のために、こんなものをここに置いて行ったのか。
それに、この袋の中身は「誰」のものなのか。
様々な疑問が脳裏を掠めるが、あくまでそれらの疑問は、その向こうにある「答え」を隠すための目隠しに過ぎないのかもしれない。
ハロルドは全ての思考を一旦は意識の外へと追いやり、自分がすべきことに取り掛かることにした。
まずはこの麻袋の中身を片付けなければならない。
ハロルドは別の麻袋を持ってくると、鮮血を滴らせているその袋を包み込んだ。
中身を伺い知ることが出来ないようにして、地下室から1階へと上がって行く。

「ティア」

暖炉の前の長椅子に腰を下ろし、心ここに在らずといった表情で座っている妻に呼び掛けると、彼女は一呼吸置いてから顔を上げた。

「あ、ハル…」
「地下に何があるかは確認した。
一先ず、これは埋めてくるからな。ティアはもう少し休んでてくれ」

ハロルドがそう告げると、小さく頷くのが見て取れた。
ハロルドは、麻袋を持ったまま家の外へと向かう。
この袋の中身は、出来ることなら自宅から離れた場所に処分したいところだが、ものがものだけに、そうすることには払拭し難い不安感がある。途中で、あるいは埋めてからでも何らかの理由で誰かに見つかってしまうという危険性を看過出来ない。
結局、自宅の庭に深い穴を掘り、そこへ埋めることとした。
穴はハロルドの背丈ほどに及ぶ深さとなり、その中に厳重に包み直した麻袋を置き、更には落ち葉をかけて目隠しとし、それから土をかけて穴を完全に埋めた。
こうしておけば動物に掘り返される心配もないだろう。
一仕事を終えたハロルドは、安堵の意味も込めて息を吐き出した。
気付けば、太陽は殆どが西の地平線の彼方へと姿を消し、宵闇が勢力を広めつつある。

あの麻袋の中身が意味するところは何なのか、誰が何を伝えたくて置いていったのか、わからないことだらけだが、目の届かない場所へと文字通り葬り去ることが出来た。
しかし、葬り去れないものもある。
埋めた男根の本数は、ゴールデングロウ農園での傭兵仲間の人数と一致していた。
これは偶然か、それとも…
そんなことを考えた時、絹を裂くような悲鳴が聞こえた。

その悲鳴は2階の寝室から聞こえてきたようだ。
ハロルドは弾かれたように猛然と駆け出し、ティアリスの元へと急行する。
寝室の扉を開け放つと、床の上に座り込んでいるティアリスの姿が目に入った。腰を抜かした、という風情だ。

「ティア!どうした!?何があった!?」

妻の側へとしゃがみ込み、声をかけながら彼女の様子を慎重に確認する。酷く動揺しているようだが、外傷などは見当たらない。

「女の子が…」
「女?」

ティアリスは頷くと、目の前にある衣装箪笥を指差した。今まで気付かなかったが、戸が開け放たれたままだ。
動揺するあまり言葉を上手く紡げないティアリスの背を撫でてやると、少し落ち着きを取り戻したのか、訥々と語り始める。

「女の子が、いきなり、出てきたの」
「この箪笥の中から、か?」
「そう。もういないけど…」

開け放ったままの箪笥には、人が隠れるだけの広さはない。ハロルドは念のために中を確認したが、やはり既に誰の姿もなく、しかし確かに今しがたまで人が入っていたという形跡は残っている。

「ティア、その女がどんな奴だったかわかるか?」
「う、うん。長い金髪の、若い女の子だったわ」
「長い金髪の若い女」

ティアリスの言葉を反芻しながら、ハロルドは険しい表情を浮かべる。
その時、甲高い哄笑が響いた。

「あはははははははははは!!」

女の声だ。しかも、すぐ近く、それこそ寝室を出た辺りから聞こえる。
その声は、階段を駆け下りる足音と共に尾を引くように遠ざかって行く。
青ざめたティアリスが怯えた表情を向けてくるが、ハロルドは寝室から飛び出し、その声を追って階下へと向かう。

「ハル!」

ティアリスの悲壮な声が頭上から聞こえた。
怯えた妻を1人で残すことへの抵抗感はあったが、今はあの声の主を捕らえることが先決だ。
玄関の扉が開き、再び閉じると同時に声は一層のこと遠ざかった。
ハロルドは躊躇なく家の外へと出て、声の主を探す。
しかしそれらしい姿は見えず、声もいつのまにか止んでいる。

「どこだ…」

僅かな気配も物音も見過ごすまいと、家の周辺を探る。
あの声は、間違いなくメイという女のものだった。姿は見えなかったが、おそらくは透明化の薬でも使用したのだろう。
しかし透明化の薬と言えども、身体を消せるわけではない。
家の周辺を隈無く見たが、あの女の存在は感じられなかった。

とすれば、既にこの場から離れたと考え、ハロルドは索敵範囲を広めた。短時間でそう遠くまで行ける筈もなく、ましてやこんな時間から城壁の外に出るとは思えない。
同時に、ハロルドは、暫く前からしばしば感じていたあの女の気配が錯覚や思い込みの類ではなかったのだと思い直した。
メイは暫く前からこの街に滞在し、事ある毎にハロルドの周辺に出没していたのだ。自宅に入り込んだのも今日が初めてではあるまい。
宿屋は足が着きやすく、後ろ暗い者の滞在場所としては不適切だ。
誰かしら匿ってくれるツテでもあるのかもしれない。

だとしても、滞在するにあたって身分を偽るのではないか、そう考えた時ハロルドはメイがソフィアと名乗って変装していたことを思い出した。
同時に、唐突に先日キナレス聖堂で見かけた黒髪の少女のことが脳裏を過ぎった。
あの時はあまり気にしていなかったが、全体の雰囲気にどこか見覚えがある気がしたのだ。
まさか、と思って足を止めた時、すぐ耳元で声がした。

「いいんですか?奥さん放っておいて」

メイの声ではない。男の声だが、ハロルドには聞き覚えのない声だ。
しかしその言葉の内容はハロルドを揺さぶるには十分で、弾かれたように自宅に向かって駆け出した。
祈るような気持ちで疾走し、息を継ぐ暇も惜しんで2階の寝室へと駆け込んだが、寝台に腰を掛けている妻の姿を見た瞬間、安堵のあまり腰が抜けそうになった。
というより、殆ど崩れるようにしてティアリスの隣へと腰を下ろした。
彼女は僅かに視線を夫に向けただけで、まるで放心したような様子だ。

「ティア、1人にして悪かった」

そう言いながらティアリスの身体に手を回すが、彼女は無反応だ。
ハロルドが「ティア?」と呼んで顔を覗き込むと、小さく口を開いた。

「あの女の子、誰なの?」
「いや…」

ハロルドは思わず言葉を濁すが、ティアリスはそんな夫の目を真っ直ぐに覗き込む。姿を見たわけじゃないから誰なのかわからない、そう言って誤魔化したかったが、最早逃れられそうにない。

「ハル、少し前からずっと様子が変だったよね?そのことと関係あるの?」
「ティア、その…」
「そういえば、今気付いたけど、前に見かけた子と同じ子だったかもしれない。
そう、あれは確か、私の妊娠がわかった日のことだったかしら?
一瞬しか見えなかったけど、長い金髪の女の子を見たわ。
そういえばハル、あの時も何だか動揺してるみたいだったわ」
「ティア…」
「ねぇ、ハル。何を隠してるの?あの子は誰?」
「いや、それは…」
「あの子の目的は何なの?私たちに何か恨みがあるの?私たちに何をしようとしてるの?お腹の赤ちゃんをどうする気なの?ねぇ?」

ハロルドは口を開きかけ、しかし上手く言葉を構築することが出来ず、再び閉ざした。こうなってしまっては、あの女のことを隠しておくのも限界だ。
矢継ぎ早に質問を口にしながら自分に縋りついて来る妻の真っ直ぐな視線を受け、ハロルドはとうとう腹を括って全てを話した。

ティアリスは口を挟むことなく、しかし一時も夫から視線を逸らすことなく真剣に聞き入った。
ハロルドが全てを話し終えた後も、彼を真っ直ぐ見詰めたまま暫し無言だった。
ハロルドは目を逸らすまいと思っていたが、とうとう決まり悪さに堪えかねて顔を伏せてしまう。その時、ティアリスが口を開いた。

「…そう。わかった。
じゃあ、あの子はあなたを強く憎んでいるのね。きっと、あなたの家族のことも」

ティアリスの口調には酷く他人行儀な響きがあり、声音も冷え冷えとしている。
あまりにも普段と異なる妻の雰囲気に、ハロルドは身体の芯が冷たくなるような恐怖を覚えた。それは、妻の心が離れてしまうことに対しての恐怖だ。

「無理もないことよね。
だったら、私たちはその報いを受けるべきなのかもしれないわ」
「ティア!俺だって自分がしたことはわかってる。
でも、君には…君にも生まれてくる子にも、絶対に手出しはさせない」

そう言って彼女を抱き締めようと手を伸ばしたが、振り払われてしまう。

「触らないで」
「ティア…」

冷たく硬質な響きを伴う拒絶の言葉を告げられ、ハロルドは愕然とする。
妻の顔には、怒りとも悲しみともつかぬ苦悶の表情が浮かんでいる。

「私がどうやって生まれたか、そういえば話したことがなかったわね」

そう言われて、ハロルドははっとして顔を上げた。
ティアリスの母親がモロウウィンドからの難民だと聞いたが、父親については何も聞かせて貰ったことがない。
あまり触れてはいけないことだと思って今まで深く考えたこともなかったが、よく考えれば簡単に察しが付くことではないか。
妻がこの瞬間に切り出したということもあって、ハロルドは確信に近い思いを抱いた。
ティアリスはふと遠い目をすると、訥々とした口調で語り始める。

「言う間でもないけれど、ウィンドヘルムのノルドの大半は私たちのことをまるで家畜か何かのように思っているわ。
何をしても、どんな風に扱っても構わない、そう思っているのよ。
…ノルドの男たちが私たちを強姦することも、決して珍しいことじゃないわ。
むしろエルフは総じて妊娠しにくいから、性欲を発散させる道具として便利なんでしょうね。
私の母も、そんな経緯で望みもしないまま私を生んだの」
「ティア…」
「知っての通り、母は私がまだ幼い頃に死んだわ。
元々あまり身体が強くなかった上に、貧しい生活の中で私を育てなければいけないから、必要なだけの栄養も摂れず、休むこともままならず、どんどん衰弱していった」
「ティア、もうやめてくれ」
「いいえ、聞いて貰うわ。
母はいつも私に対して余所余所しかったけど、幼い頃の私はその理由がわからなかった。
それに、私に対する他のダンマーの態度も決して温かくはなかったわ。他の同族に対するのとは明らかに違った。
彼らが私に向けた憐れみや蔑みを込めた目も、今となっては理解出来る」

ティアリスはそこで一旦言葉を切った。
彼女が伝えたいことはこれで全てかと思ったが、まだ続きがあった。

「私はなるべく男の子みたいな恰好をして、可能な限りノルドたちの前に出ないようにしながら過ごしたわ。
それに、出来るだけ1人にもなりたくなかった。
それでも…」
「ティア?」
「私とあなたが結婚することを、誰も彼も快く思わなかったのは知っての通りね。
あなたには話していなかったけれど、あなたのお兄さんたちから何度も『弟から離れろ、この淫売の灰色ネズミが』と言われたわ」

この話はハロルドにとって初耳だった。
ティアリスとの結婚を巡って家族とは何度も衝突したが、家族にはティアリスを責めることだけは止めて欲しいと伝えたし、その件だけは家族全員が承諾してくれたものだとばかり思っていた。
まさかハロルドの与り知らないところで兄たちが彼女にそんなことを言っていたとは夢にも思わなかった。
しかしティアリスの話はまだ終わりではない。

「もちろん私はそんなことを聞き入れられないし、あなたへの気持ちが真剣なものだってわかって欲しくてそう言い続けたわ。
でも、ついに彼らは最後の手段とばかりに…」

ティアリスはそこまで言って言葉を詰まらせた。
その沈痛な面持ちを見て、妻が何を話そうとしているか、ハロルドにも察しが付いた。

「まだ私があなたと結婚する前のある夜のことだけど、その日は家の外がとても騒がしかったの。
でも、灰色地区では珍しいことでもないわ。
ロルフ・ストーンフィスト、だったかしら。あの男が、毎晩のように灰色地区を徘徊して、ダンマーを侮辱する言葉を喚き散らしていることはあなたも知っているでしょう?
その日もいつものようにロルフが喚いているんだと思ったけど、数人の声が家へと近付いて来たと思ったら、無理矢理扉を破ってノルドの男たちが家へと押し掛けたの。そして…」
「ティア!頼む、もう…」
ハロルドは唇を噛み締めて顔を背けた。
「あいつらは家に踏み込んできて、私を無理矢理…」
「ティア…」
「服を破られ、手足を押さえ付けられて、訳がわからない内に犯されたわ。
1とても痛くて苦しくて気持ち悪くて、でも、すぐに次の男が私にのしかかってきた。
その男が終わってもすぐにまた別の男が私の中に入ってきて、その男が終わってもやっぱり次の男が…」
「ティア、もういいんだ…」
「あの日、何人の男に犯されたのか私にもわからない。
気付けば私は1人ぼっちで、滅茶苦茶に荒らされた家の中で倒れていたわ。
全裸で、すごく寒かったことは覚えているわ。
それに、全身が痛くて気持ち悪くて、この寒さが早く私の命を奪ってくれればいいのにとしか思えなかった。
そして、気付けばあなたのお兄さんたちが私を見下ろしていたわ。
私を哀れむような笑みを浮かべながら、『だから忠告しただろう?これに懲りたら弟から離れるんだ』と…」

ティアリスの声音に嗚咽が混じる。
彼女に目を向けると、頬を涙で濡らしながら口元を押さえている。

「ティア…!」

ハロルドが慌てて彼女に手を伸ばそうとした時、乾いた音が響いた。
ややあってから頬に痛みを感じ、ティアリスに頬を叩かれたのだと気付く。

「あなたもあいつらと同じことをしたんでしょう…!
その子が侵入者なら、すぐに殺せば良かったのよ。それがあなたの仕事だった筈よ。
なのにあなたは、その子を…」

ハロルドは返す言葉もなく、ただ呆然とするばかりだ。
自分自身でも幾度となく考えたことだが、他ならぬ最愛の妻の口から告げられた衝撃は極めて大きい。
脳を直接殴られたかのように、頭がくらくらした。
敬愛していた兄たちの裏切りを知ったことも十分にショックだが、それ以上に最愛の妻を傷付けてしまった事実による自責の念がハロルドを苛む。

「ティ…」
「呼ばないで。汚らわしい」
ティアリスは顔を背けて吐き捨てるように言った。

心臓が早鐘のように打ち、頭の芯が熱を帯びたかのような熱さを感じるのに対して、手足が酷く冷たい。
全身が砂か何かで出来ているように、崩れそうな気分だ。
いや、実際にそうならどんなに良かっただろうか。
ハロルドは覚束ない足取りで寝室の扉へと向かい、そのまま廊下へ出る。
肩越しに振り返ると、妻はまだ顔を伏せたままだ。華奢な肩が震えているのが見えて、思わず駆け寄って抱き締めたい衝動を覚えたが、今は却って彼女を傷付けるだけだとわかっているから踏み止まった。

「…すまない」

それだけ言うとハロルドは寝室の扉を閉めて1階へと降りて行く。
明かり取りの窓から外を見れば、もうすっかり夜で、星が瞬いている。
そういえば夕食を食べていないことを思い出したが、食欲など全くない。
ハロルドは、妻の分だけでもとすぐに食べられる食事を用意し、食堂のテーブルの上に置いた。
適当な毛布を手に取って物置へと向かうと、そこで横になった。

様々な思いが脳裏を駆け巡る。
心身共に疲れ切っているにも関わらず、眠気が訪れる気配は全くない。家の外では強い風が吹き、樹々の枝や近所の店の看板を揺らす音が聞こえる。
その音に交じってメイの哄笑も聞こえたが、今度はそれを追いかけるようなことはしなかった。
狡くて卑怯なあの女のことだから、決して捕まらないように手筈を整えた上でああやって煽っているに違いない。
ハロルドは今まさにどん底にいる気分だったが、それでも冷静な怒りは失っていない。

(でも、このままで済むと思うなよ。今の内にせいぜい笑いたいだけ笑ってろよ)

心の内で昏い怒りを燃え滾らせながら、いつしか彼は眠りに落ちていた。

Comments & Trackbacks

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  1. 待ってました!
    大好きなお話なので再開してくれてほんとうれしすぎる
    ハロルド君、悪役かと思ったらふつうにいい人でした笑
    ひどい目にあって可哀想な気もしますがメイちゃんにしてはいけない事しまくりなので仕方ないかな。。。(苦笑)